さて、昨日から引き続きエロゲーの話です。今日取り上げるのは、『D.C.(ダ・カーポ)』です。ハイ、ハイ、七尾奈留が最高とか言うんでしょ。こんな声がどこからともなく聞こえてきそうですが、流石にそれだけで持ってきたりはしません。ちゃんとかどうかはわかりませんが話すことはあります。
 D.C.が発売されたのは2002年なんですが、当時友達から感動する、素晴らしい、泣けるという触れ込みで渡されたのがこのゲーム。胡散臭いことこの上ない(失礼)と思いながらプレイしたのを覚えています。やった感想はというと友達とは一致しなかったのですが、なんとなく楽しい。気がつくと隠しキャラまで含んだ全キャラコンプリートを成し遂げていました。
 一体全キャラコンプリートまでの原動力はなんだったのでしょうか。これがD.C.にまつわる話なのです。
 D.C.のストーリーを見直してみてもストーリーライン自体は秀逸であるわけでもなく、むしろ悪い部類に入ると当時から思っていました。しかし楽しい。何故だ!それまでの経験上こういったことは経験したことがなかったんですね。だからこそ新鮮で、のめりこみました。
 結論を言ってしまうとD.C.の優れていた点はキャラクターのみでした。ストーリーの良し悪しを踏み越えたところにキャラクターがそれ自身だけで存在し、むしろキャラクター消費のためにストーリーが構築されているといっても過言ではありません。
 さて、ここで2002年当時がどういった時期だったかを思い返してみると「萌え」という言葉が広く使われ出した、いわば大衆的萌えの黎明期だったように思います(萌えという言葉が大衆的でねーよとかの突っ込みはおいといて)。そういった時期にキャラクターのみに特化したD.C.という作品は合っていたんですね。キャラクター萌えの下地のあるところに時代の寵児よろしく投下されたのがD.C.だったのです。
 結局何が言いたかったかというと、今のいわゆる萌え文化の源流はD.C.に見ることが出来るから興味がわいたらやってみるのもいいかもよってことです。それまでのLeafやKey作品とは明らかに一線を画すものがあるように思えます。ストーリーが面白くないなんて言っては駄目なのです。みんなそんなことはわかっているんですから。

今日の一言 D.C.(ダ・カーポ)

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